前回のタイトルは「酈道元と楊衒之」としたが、両人とくに前者のことは、とうてい一回だけには収まりきれず、そこで今回は酈道元の後半、さらにその次が楊衒之ということに。
さて、酈道元の著『水経注』渭水篇にいう。
「〔後〕漢の霊帝の建寧三年(A.D170)に改めて都郷とし、段煩を封じて侯国とした。のち陰槃城を立てたが、その水は城にそって北に出ているので、世間ではこの水を陰槃水といっている。〔その水は〕また北に向かい漕渠をわたって、北のかた渭水に注ぐ。」(森・日比野・藤善・勝村訳)
いまの西安市の東、クルマで1 時間ほど走ると、秦の始皇帝陵。近くに見える驪山の麓に華清池(玄宗・楊貴妃の驪山温泉)。その驪山から流れ出た小川が、北流して魚池水となり陰槃水となって、最後は渭水に注ぎ込む。陰槃水の右岸が項羽と劉邦の会見で有名な鴻門。まさしくこのあたり、歴史とロマンの宝庫と申すべきところ(図参照)。

酈道元がこの辺を通ったのは、いつ頃のことか。渭水篇を含め『水経注』が成ったのは524 年だが、何と3 年後の527 年、陰槃の包囲戦で壮烈な最期を遂げる。時に59 歳。
524 年、10 年ぶりに官途に復したあと、525 年、彭城(いまの江蘇省徐州)で手柄を立てて、御史中尉に栄進。
ところが、524 年に北方で勃発した六鎮の乱は、西方の鎮や南方の州まで巻き込んで拡大し、北魏の支配は大きく揺らいだ。このうち、西方の陝西・甘粛で六鎮勢力に呼応した叛徒を伐つべく中央より派遣された蕭宝夤は、527 年、みずからも反乱に立ち上がる。
以前よりこの男を疑っていた政府は、さっそく酈道元を関右大使に任命し、難事に当らせようとするが、この人選にはかねて道元に怨みをもつ一部王族の思惑がからんでいたようだ。それはともかく、
蕭宝夤は部将の郭子帙をやって、
「道元を陰盤(槃)駅亭に囲む。亭は岡上に在り、常に岡下の井を食(飲)む。既に囲まれ、井を穿つこと十余丈なるも水を得ず。水尽き、力屈す。賊遂に牆を踰へて入る。道元、其の弟道□・二子と倶に害せらる。道元、目を瞋らして賊を叱し、声を厲まして死す。」(『北史』列伝巻十五)
530 年、反乱軍は敗北して関中は平定され、道元父子の遺体は都の洛陽に戻ってきた。
それにしても、なにゆえ岡の上に陣を布いたのか。高い所だと見通しは利くが、水が尽きるリスクがある。かの街亭の戦いが好い例だろう。(正史『三国志』魏書巻17 →小説『三国演義』第95 回)。
酈道元は、『魏書』酷吏伝に載せられたように峻厳な行政官で、『水経注』を読めばわかるとおり博学の人。だが、兵法には通じていなかったように思われる。
(『緑の地球』180号 2018年3月掲載)







