楊衒之『洛陽伽藍記』巻一「永寧寺」の項にいう。
「永熙三年(534)二月、この塔は火災で焼け落ちた。孝武帝は淩〔陵〕
雲台に登って火を望見されると、南陽王の宝炬(のちの西魏第1代文帝)と、録尚書事の長孫稚をつかわし、近衛兵一千を率いて消火に向かわせた‥‥。
七月になって、平陽王(孝武帝)は侍中の斛斯椿に脅迫されて、長安に逃亡した。
十月、都は鄴《ぎょう》(河北省)に遷った。」
北魏後期の都にして仏教都市・洛陽(河南省)を象徴する永寧寺は、534 年、落雷による火災で焼失したが、じつはこの前後、北魏の中央政局は激動の真っ只中にあった。
前回述べたように、爾朱栄に擁立された第9 代孝荘帝は、530 年、栄の専権を憎んでこれを誅殺するが、その甥の爾朱兆により山西省晋陽(太原)でくびり殺された。爾朱氏は531 年、皇族の一人元恭を帝(第10 代節せつびん閔帝てい・前廃帝)として立てる。
これに対し、河北省各地の豪族たちは、連携して反爾朱氏に立ち上がった。おりしも、爾朱兆の武将としてもとの六鎮の反民20 万余を率いていた高歓は、食糧調達を名目に河北省信都に迫ったが、両者のあいだで連携が成立。531 年、別の皇族の一人元朗を帝(後廃帝)として推戴する。
翌532 年、高歓らの連合軍は河北省鄴を占領。これに対し爾朱兆らは20 万の大軍を集結し、両者のあいだで決戦の火ぶたが切られたが、爾朱側は大敗し、殱滅される。
実権を握った高歓は、爾朱氏が立てた節閔帝ばかりか、自らが信都で擁立
した皇帝もともに廃して、新たに皇族の一人元脩を位につけた。これが北魏第11 代の孝武帝にほかならない。そして、即位2 年後の534 年、永寧寺が焼亡したわけだ。
その後、高歓は晋陽にあって洛陽の北魏朝廷を遠隔操作。これを嫌った孝武帝は高歓を伐つべく出陣するが、あえなく失敗。同年7 月、長安の宇文泰のもとに脱出した。そのころ、長安を中心とする関中(陝西省)には、かの六鎮の一つ武川鎮から南下した宇文泰が独自の勢力を築いていたからだ。
それではと高歓は、清河王の元善見を立てて帝(東魏第1代孝静帝)とし、都を洛陽から鄴に移した。『伽藍記』がいうように、同年10 月のことだ。
かくして、鄴で孝静帝を奉ずる高歓と、孝武帝を長安に迎えた宇文泰の二大勢力が華北の東西に対峙する。ただし、孝武帝は半年もたたぬうち、宇文泰により毒殺。常軌を逸した乱倫が嫌われたらしい。代って宇文泰は、その従兄の元宝炬(かつての南陽王、西魏第1代文帝)を擁立した。ここにいたって北魏は、東魏と西魏に完全分裂。
これより13 年後の547 年、東魏の役人になっていた楊衒之は、『伽藍記』の序文にこう書いている。
「私は役向きの旅の道すがら、再び洛陽を見る機会を得たが、城壁は崩れ落ち、宮殿は傾き倒れ、寺院は灰燼に帰し、廟塔は廃墟となっていた。」
と。
(『緑の地球』178号 2017年11月掲載)
黄土高原史話<85> 北魏、東・西に分裂す by谷口義介







