何度も引用した『洛陽伽藍記』の「永寧寺」の項にいう。
「〔孝荘帝の〕建義元年(528)、太原王の爾朱栄が軍隊をこの寺に集結した。」
この記述にもとづいて、前回、「爾朱栄の軍は、都に進擊して、宮殿に近い永寧寺に陣を張る。かくして永寧寺は、争乱の中心的舞台となるわけだ」と述べたが、こう言ってしまうと、少しく誤解をまねく恐れあり。
爾朱栄の起こした乱は、史上「河陰の変」とよばれるごとく、洛陽の北50キロを東流する黄河の南が惨劇の舞台。ここがいわゆる河陰の野で、河陰とは河の南側という意味だ。
前回も記したように、永寧寺は第7代宣武帝(499 ~ 515 年在位)の妃にして、第8 代孝明帝(515 ~ 528 年在位)の母たる霊太后胡氏が516 年に建てたもの。
彼女は名家の出にして、聰明かつ才芸も豊か。その姑(父方か母方の姉妹)が尼になっていた感化で、深く仏教に帰依した。ところが、宣武帝の死後、5歳の孝明帝の摂政となって大権をにぎるや、近臣や宦官を寵愛して綱紀を乱し、寺塔の建立や贅沢で国費を濫用。520 年、ある皇族と宦官が共謀して霊太后を幽閉するが、6 年後、ふたたび摂政の座についた(したたか!)。
しかし、成人した孝明帝は太后の不品行・スキャンダルをにくみ、乱脈をきわめた宮廷政治の刷新をはかって、その手助けを外部に求めた。そこで登場するのが、北地の秀谷に勢力を張っていた爾朱栄にほかならぬ。その地は今の山西省朔州市の北西というから、わが大同と比較的近い。
爾朱栄は契胡とよばれる種族の族長で、8,000 余りの部落を有し、家には数万頭の馬がいて、北魏王室とも関係をもち、陰然たる勢力を保持していた。
528 年2 月、太后が19 歳の実子孝明帝を毒殺し、第6 代孝文帝の曾孫にあたる3 歳の元釗を立てると、爾朱栄は孝文帝の孫の長楽王(のちの孝荘帝)をかつぎ上げて、洛陽にむけ進擊。
この報に接した太后だが、胡氏一族の専権がにくまれて、皇族・高官に人気がない。わずかに二人の将軍が5,000の兵をひきいて都を出、黄河にかかる「河橋」の守りを固めた。河橋は今の河南省孟県の南にあった渡河地点で、北へ黄河を渡るための桟橋が以前から設けられている。
同年4月11日、南下してきた爾朱栄は、黄河の北側に布陣。かねて連絡をとっていた長楽王が河を北に渡って投ずると、それを知った太后側の将軍はあっさり兵を解いて降伏した。
4 月12 日、爾朱栄は黄河を渡って河陰の野に陣を張る。
同13 日、都の百官に通達して新帝に拝謁するように命令し、やってきた王公・大臣・朝臣ら2,000 余人を虐殺した。では、太后はどうなったか。
『魏書』巻13「皇后列伝」の宣武霊皇后胡氏の項にいう。
「武泰元年(528)に及び、爾朱栄、兵を称げて河を渡る。太后、尽く粛宗(孝明帝)の六宮(皇妃たち)を召して皆入道(出家)せしめ、太后も亦た自ら落髪す。栄、騎を遣して太后及び幼主(釗)を河陰に拘送せしむ。太后、栄に対し陳説(弁明)する所多きも、栄、衣を払って(憤然として)起つ。太后及び幼主、並に河に沈めらる。」
つまり、太后は剃髪して出家の意向を示したが、その甲斐なく、幼主ともども黄河に投げ込まれた、というわけだ。
同14 日、新帝は洛陽に入城し、天下に大赦を行なって、元号を武泰から建義に改めた。これが孝荘帝(528 ~ 530年在位)である。
同20 日、帝は詔を下して人心の安定をはかった。また、栄の娘を皇后に立てた。
最大の実力者・爾朱栄が永寧寺に軍団を入れて睨みを利かせたのは、おそらくこの段階でのことだろう。
(『緑の地球』175号 2017年5月掲載)
黄土高原史話<83> 象徴としての永寧寺(中)by谷口義介







