前々回と前回で紹介した酈道元のことは、『魏書』や『北史』に伝が立てられているので、おおむねその経歴を知ることができる。
ところが、『洛陽伽藍記』の著者・楊衒之については、姓も「楊」のほか「陽」や「羊」と書かれるなどまちまちで、その世系も生没年もまったく不明。やむをえず、後世の諸書から記事を拾って推測すると……。
「楊衒之は北平の人なり。元魏(北魏)の末、秘書監と為る」(唐・道宣『広弘明集』巻6)
「期城郡守楊衒之」(唐・道宣『続高僧伝』巻1)
「出でて期城太守と為る」(唐・道世『法苑珠林』巻119)
これらによると、北平郡つまり今の河北省遵化の出身。北魏の末年、中央で秘書監となったが、おそらくそれよりまえ、期城郡守(太守)として地方に出ていたこともあったらしい。ちなみに期城は湿城の別名で河南省沁陽県あたりだから、洛陽の北東70 キロほど。
これとは別に、『洛陽伽藍記』巻1にも、楊氏本人に関する記述がみえる。
北魏第9 代孝荘帝の永安年間(528 ~530)のこと。城内北側の華林園内にあった苗(=茅)茨堂のまえの石碑をめぐって、帝に供奉《ぐぶ》していた百官たちが、「苗」の字が誤りではないかと、あれやこれやの大議論。
その時、衒之は奉朝請であったが、すぐさま解釈を下だして、「蒿で屋根を葺いたので、それで苗茨と言ったまで。何の誤りがあろうか」と言ったところ、一同みな「なるほど」と感心し、その本義を言い当てていると認めてくれた。(入矢義高訳)
楊氏の得意顔が目に見えるようだが、それはともかく、「奉朝請」とは実官ではなく、宮中での朝会に召されて参内するという栄誉を与えられた地位で、従七品。つまり北魏の末年、楊氏は秘書監、奉朝請としてかなり重んじられていたようだ。

ところが、530 年、孝荘帝は爾朱兆に殺され、534 年、北魏は東・西に分裂。一方の実力者・高歓は孝静帝(534 ~550 年在位)を擁して河南省北東の鄴に遷都、東魏を立てる。
『洛陽伽藍記』の序文にいう。
永熙の世の動乱〔534 年〕に、帝が鄴に遷都されると、寺々の僧尼たちも同時にそちらへ移っていった。
そのとき楊氏も、帝に従って新都に移ったとみてよいだろう。
翌535 年、高歓は7 万6000 の人夫を動員して鄴に新宮を造り、あしかけ5年を費やしてこれを完成、540 年、帝はここに移った。
さらに、上引『伽藍記』の続きにいう。
武定五年、丁卯の歳(547 年)になって、私は役向きの旅の道すがら、再び洛陽を見る機会を得た……。
これでは後の世に伝わらずじまいに終ると思い、そこでこの記録(『洛陽伽藍記』)をものした次第である。
「役向きの旅」のときついていた官職とは、『伽藍記』巻頭の自署にみえる「撫軍府司馬」のことだろう。
こうみると楊氏は、北魏分裂の激動期、洛陽から鄴に移って、東魏政権下で職を得ていたわけだ。決して高官とはいえないようだが……。
(『緑の地球』181号 2018年5月掲載)







