『水経注』の著者酈道元のことは2回書いたので、それとの釣合い上、『洛陽伽藍記』の楊衒之についても、前回に引き続き、もう1 回ふれることにしよう。
同書の序文によると、洛陽の寺の全部はとうてい紹介しきれないから、著名な寺院だけにとどめ、マイナーなものは不思議な話がある場合にかぎり取り上げる、と。
そうした話の一つに、崇真寺の僧慧凝が死んで7 日目に蘇生して語ったという「閻魔大王の審判の話」がある。
慧凝は審問の結果、人違いであることが判明し、放免されて生き返ったわけだが、そのおり5 人の僧侶も裁きを受けているのを見た。
(一) 宝明寺・智聖の場合
生前、ひたすら坐禅に励み苦行したので、「天堂」(極楽)行きが決定。
(二) 般若寺・道品の場合
『涅槃経』四十巻の読誦につとめたので、やはり極楽へ。
(三) 融覚寺・曇謨最の場合
みずから1,000 人の弟子に『涅槃経』と『華厳経』の講釈をした、と陳述。しかし閻魔大王は、「経を講釈する者は、心に彼我の別をいだき、他者に勝ちみずから驕ろうとする者で、僧中最低の行いだ」として、西北の門から黒い屋舎(地獄)に送り込ませた。
(四)禅林寺・道弘の場合
4 代にわたる施主を教化し『一切経』と等身大の黄金仏10 体を造った、と陳述。しかし大王は、「たとい経や像を造ったとて、それは他人の財を得たいがために外ならない」として、これも黒門に送り込んだ。
(五)霊覚寺・宝真の場合
地方長官をしていたとき寺を造り、完成してから出家し、礼拝を欠かしたことがない、と。しかし大王は、「民の財物をかすめ取って寺を建てただけだ」として、青衣の役人(獄卒)に引き渡し、黒門に放り込ませた。
塚本善隆博士の『魏書釈老志の研究』(著作集第1 巻、大東出版社)にいう
この説話は、「仏教学の知識の博きを競うて実践修行を忘れている洛陽貴族仏教に対する、真剣な求道実践的僧の警告、或は貴族の豪華な造寺造像の大事業の下で、財と労力を徴発されて苦しんできた素朴な実践的奉仏者である士庶の、貴族的仏教に対する批判であり、その中から生れる求道的反省の声と解したい」。そして、「この話を今日に伝えた『洛陽伽藍記』の著者」は、「かかる説話への共感者」であった、と。
ところで、地獄に送られた(三)(四)(五)の例とも、じつは坐禅・誦経につとめていなかったこともその理由にあげられているから、(一)(二)の例とあわせ、極楽か地獄の境い目は坐禅・誦経の有無にあったと判断できよう。
そしてこの話は、「これより後、都の比丘はみな坐禅・誦経にはげみ、講釈を問題にしなくなった」、と結ばれている。
そもそも楊衒之は序文にみるごとく、中国の伝統思想と対比するかたちで、仏教への正確な理解を示している。また、巻一「景林寺」の項で、その境内には一棟の禅院があり、
「淨行の僧たちは、この禅院で縄牀に坐り、求道の苦難を忍びつつ、結跏して数息観を修している」(入矢義高訳)
と。
今でも坐禅堂では、老師が“身を調え、息を調え、心を調える”と教えるが、調身・調息・調心という修行法に、楊衒之も通じていたのだろう。
それかあらぬか、中国に初めて禅宗を伝えた菩提達磨(ダルマ禅師)と楊衒之が問答を交わしたという伝説が、唐代中期の『宝林伝』という本に見えるらしい(『初期禅宗史の研究』柳田聖山集第6 巻、法蔵館)。
(『緑の地球』183号 2018年9月掲載)
黄土高原史話<89>極楽行きのパスポート by谷口義介







