本シリーズ、今回で86 回を数えるが、51 回目からは連続して北魏関連のことを書いてきた。それというのも、この王朝の前期の都・平城はいまの山西省大同にあたり、GEN の緑化協力の活動範囲で、なじみが深い。後期は河南省洛陽に遷都するが、この時点で北魏と縁切りというのも薄情だろう。洛陽は広くいって黄土高原に属している。長々と北魏にかかわってきた言い訳です。
そのさい、前半の平城時代の説明で利用したのが、『魏書』および酈道元の『水経注』。後半はほとんど楊衒之『洛陽伽藍記』の引き写し。大変お世話になったので、いよいよ北魏の項を閉じるにあたり、ご両人の紹介をさせていただこう。
まず酈道元については、北斉・魏収の『魏書』と唐初・李延寿の『北史』に伝がある。
『魏書』は計130巻で、554年にできた。曲筆が多く穢史と非難されるが、それだからこそ面白いといえる。血で血を洗う惨劇と宮廷スキャンダルは、本シリーズでも紹介したとおり。『北史』は華北に都を置いた北魏・北斉・北周および隋の歴史をまとめたもので、全100 巻、659 年に完成。
酈道元について、『魏書』は311 字、『北史』の方はその倍ほどの字数で略伝をしるすが、『水経注』のなかにも自伝的資料が散見している。これらを通じ、生涯のあらましを知ることができるだろう。
本籍地は幽州(河北)涿県つまり北京の西南方面というから、かの劉備玄徳(161 ~ 223)の生地あたりか。6 代まえの祖先からここに居を構えたというが、代々各地の行政長官をつとめた。北魏につかえたのは祖父のときからで天水太守(甘粛省)、父は青州刺史(山東省)。その赴任先の益都県で469 年に生まれたようだ。
第6 代孝文帝が洛陽に遷都した494 年、酈道元は尚書郎として近侍、つぎの第7 代宣武帝期には河北・河南各地の行政長官を歴任。「法を執ること清刻」なるをもって抜擢され、地方にあって順調に官歴を踏んできたが、宣武帝の515 年、任地先で「威猛」の政を施したため中央に訴えられ、官を免ぜられた。そして第8 代孝明帝の524 に河南尹、つまり首都洛陽地区の行政長官(日本でいえば東京都知事)になるまで、いかなる官にも就いていない。では、この10 年間に何をしていたのか。
『水経注』の序文にいう。
「多暇にして空しく歳月を傾くるを以て、輒ち『水経』」を述べて前聞を布広す」。
すなわち、47 歳から56 歳までの挫折と失意の期間、シコシコ『水経注』を書いていたのだ。
また『北史』にいう。
「道元、学を好む。奇書を歴覧し、『水経』四十巻を撰注す」。
そもそも後漢~三国時代に成立した『水経』なる本があり、それは大小137の河川につき記したものだったが、酈道元はそれに詳しい注を施したわけだ。
河川の数も1252 にふやし、分量的には原書の20 倍ほどもある。
基本は河川の水路を追った地理書だが、その流域の山や池、都市・墳墓・祠廟・名勝・古跡、故事・伝説および動植物に関する記述も含む。
原書に対し、このように『水経注』が格段に詳細なのは、酈道元が「奇書」を含め多数の文献を引用しているから。それに加えて、故郷の河北省涿県、幼少期をすごした父の任地山東益都、出仕した首都平城や洛陽、赴任した河北冀県や河南の長葛・魯山・泌陽、孝文帝にしたがって巡歴した内モンゴル一帯、それら赴任の途次または在任中に遊歴した土地の見聞を、その叙述に生かしているからだ。
(『緑の地球』179号 2018年1月掲載)
黄土高原史話<86> 酈道元と楊衒之 by谷口義介







